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第20回順慶まつり
|第20回順慶まつり
戦国の時代に大和を統治していた筒井順慶ゆかりの地で行われる「順慶まつり」に行ってきました。
奈良県でこの様なお祭りが開催されていることを知ったのも昨年の話しで「是非行ってみたい。」と思っていたのですが昨年は日程が合わず行くことが出来ませんでした。
企画部H.M
奈良県生まれ、奈良県育ち。不動産歴15年の賃貸営業を10余年してきたました。一人暮らしのお部屋探しから新婚様の同居部屋など数多くのお部屋探しをお手伝いさせていただきました。趣味としてカメラを3年前に始め奈良をはじめ、周辺の観光スポットなどを訪れております。
筒井順慶とは
筒井順慶は、筒井順昭の子として生まれ筒井家は代々、大和国の国人領主として勢力を保っていましたが、戦国時代の乱世においても例外ではなく、内外からの脅威にさらされていました。
1549年、順慶が生まれて間もなく父・順昭が死去したため家督は幼い順慶が継ぐことになりました。
しかし、実質的な家の運営は母・慶寿院(けいじゅいん)や家臣の松永久秀が担っていました。
順慶は後に成人し、自ら筒井家の当主として指導力を発揮するようになります。
筒井家が拠点とした大和国は、寺社勢力や他の国人領主さらには大名同士の争いが絶えない地域でした。順慶はその中で巧みに立ち回り徐々に領地を安定させていきます。
特に、彼の生涯において重要な転機となったのは、織田信長との関係です。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした際、順慶はその影響を受け、信長に従属する形で協力するようになります。信長は中央政権の再建を目指しており、順慶もその枠組みの中で大和国の統治を委ねられることになりました。これにより、筒井氏は大和国での支配を安定させるとともに、織田政権の一翼を担うことになります。
筒井順慶の名を後世に知らしめるきっかけとなったのが1582年の「本能寺の変」とそれに続く一連の動乱です。
本能寺の変は、明智光秀が織田信長を討った政変として有名ですが、その後に光秀と織田信長の部下であった羽柴秀吉の間で天下争いが勃発します。
この時、順慶はどちらの陣営に味方するかを決めかねていたと伝えられています。
特に「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」での状況は有名で順慶は戦いにおいて光秀側に加勢するか、秀吉側に回るかを判断できず、結果的に中立を保ちました。
このことから「洞ヶ峠を決め込む」ということわざが生まれ、現代でも「優柔不断で傍観者の立場を取る」という意味で使われています。
最終的に、順慶は秀吉の勝利を見極め、秀吉陣営に加わることを選びます。秀吉は順慶を評価し、大和国における支配権を維持させたばかりか、彼の領地も安堵しました。この判断により、順慶は戦国の乱世を生き延びることができました。
1584年、順慶は病に倒れわずか35歳という若さでこの世を去りました。
彼には実子がいなかったため養子である筒井定次が後を継ぎました。しかし、定次の代で筒井家は豊臣秀吉によって改易され、筒井氏は大和国での勢力を失います。
順慶が築いた基盤は短命に終わったものの、彼の統治や戦略はその後の歴史に大きな影響を与えました。
順慶まつり
「順慶まつり」は、筒井順慶ゆかりの地である大和郡山市筒井城跡で行われ、順慶の遺徳をしのぶお祭りです。
朝10:30より筒井城跡にて火縄銃の発砲が披露され、来賓の方々のご挨拶ののちに「出陣式」が行われます。
この「出陣式」は、まず僧形の筒井順慶が杯を、続いて甲冑姿の島左近、松蔵右近が杯を交わします。
飲み干した杯を打ち割った後、順慶の「出陣じゃ」の号令のもと、僧形や武将などの武者行列が筒井城跡を出発いたします。
出発した武者行列は筒井駅前を経由し筒井城跡まで練り歩きます。
会場となった筒井城跡では、他にも模擬店なども出店されておりお子様まで楽しめるお祭りとなっております。
開催地 | 奈良県大和郡山市筒井町1486-1 |
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交通 | 近鉄橿原線「筒井」駅徒歩8分 |
駐車場 | なし(筒井駅近くのコインパーキング) |
開催日 | 2024年9月8日(日) |
開催時間 | 10:30~ |
リンク | 大和郡山市観光協会公式HP |